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石田文樹さん(横浜打撃投手)お悔やみ申し上げます [横浜大洋銀行]

7月15日にお亡くなりになりましたが

私にとっては思い出がある選手なので今回特集します。

元取手ニ、甲子園V腕の石田文樹氏が死去

石田取手二高.jpg甲子園でKKに勝ったときの映像

横浜のチームサポーター(打撃投手)で取手二時代の84年夏の甲子園で全国制覇を達成した石田文樹(いしだ・ふみき、登録名・石田大也=いしだ・ともや)氏が15日午前1時40分、直腸がんのため横浜市内の病院で死去した。41歳だった。

 石田氏は茨城県出身で取手二のエースとして84年春夏連続甲子園出場。春は準々決勝で優勝した岩倉に敗退。夏は決勝に進出して、当時2年生だった桑田、 清原の“KKコンビ”を擁して連覇を狙ったPL学園を延長の末に8―4で下して日本一に輝いた。卒業後は早大に進学したが中退。その後は社会人野球の日本 石油(現新日本石油ENEOS)入りして87、88年の都市対抗にも出場した。88年ドラフト5位で大洋(現横浜)入団。主に中継ぎとして通算25試合1 勝0敗、防御率4・59で94年に現役引退。その後はチームサポーターとして打撃投手などを務めていた。

 関係者によれば石田氏は今年3月中旬に体の不調を訴えて入院し、4月に直腸がんの手術を受けた。一時は快方に向かって5月に退院したが、6月下旬に再入 院。ベッドでは「もう一度バッティングピッチャーをやりたい」と復帰を夢見ながら、最下位に低迷する横浜の動向を常に気にしていた。また、神奈川・川和で 控え投手としてベンチ入りしている長男・翔太くん(2年)の晴れ姿を見るのを楽しみにしていたが、かなわなかった。

 


私が小学校時代の高校野球はPL学園のKKを中心に盛り上がっていた時代でありました。

 

当時の取手二高の石田投手がPL打線を抑えての優勝は非常に感動しました。

あまりにも早くお亡くなりになるとは思いませんでした。

 


 

ご子息さんも健闘しました。

川和石田が父に捧げる力投/北神奈川大会
 <高校野球北神奈川大会:川和8-5霧が丘>◇16日◇2回戦
 川和(北神奈川)が霧が丘を8-5で破り、3回戦に進出した。15日、直腸がんのため亡くなった横浜打撃投手の石田文樹さん(享年41)の長男翔太投手(2年)が先発。悲しみをこらえながら5回途中まで3安打4点に抑え、父に「白星」を贈った。
 亡き父にささげる力投だった。背番号「20」の石田がマウンドに上がった。7回を無失点と好投した初戦(橋本)とは異なり、4回まで毎回走者を出す苦しい投球内容。「マウンドでは(父の死を)忘れようと思った。私情を持ち込みたくなかったから」と強い意志で投げ抜いた。5回、先頭打者に安打を許し降板したが、4回0/3を3安打4失点。気持ちがこもった70球で試合の流れを作った。
 志願の先発だった。この日、岩本晃典監督(20)から「投げられるか」と聞かれ、「いけます」と即答した。「顔をみても普段と変わらなかった」(同監督)とマウンドに送り出された。171センチ、61キロ。177センチの父より小柄だが、自己最速は135キロ。体全体を使うフォームは父をほうふつさせる。女房役の山田一輝(3年)も「気持ちが入っていました」と右腕の粘投に目を見張った。
 ナインから後押しされた。6-3とリードを広げた4回、茂垣太志主将(3年)が2ランを放ち、突き放した。「頼れるエースと思っています。チームのため、石田のために打ちたかった」。病状を知っていたのはごく一部の学校関係者など数人。部員には誰ひとり知らされていなかった。この日、初めて訃報(ふほう)を知ったナインは「知らないことにしよう」(茂垣主将)と全員、普段通り接した。その打線は9安打8得点と結果で後押しした。
 小2の時に野球を始めた。「自分が(野球の)質問をしないと、教えてくれませんでした」という。だが、病床の石田さんは今大会をどれだけ楽しみにしていたことか。親しい球団関係者が6月に見舞った際、ベッドで日程表を見ながら「4回戦までいけるかもしれない。自分の息子が投げるのは見ていられないんだよね。でも良くなったら、やっぱり試合を見に行きたい」とうれしそうに話していたという。願いかなわず、石田さんは息を引き取った。15日、石田は病院のベットで父をみとった。「ありがとう」。ほとんど意識のない父に感謝の気持ちを込めて、最後の言葉をかけていた。
 昨夏、過去最高となるベスト8進出を果たした。「次の試合も絶対投げたい。ベスト8を超える結果を残したい」と、最後まで気丈に話した。涙はなかった。再三のピンチでも「自分の力でなんとかしたかった」と踏ん張った。石田の元に、この試合の使用球が贈られた。

 


打撃投手の傍らご子息様の成長を陰ながら見ていたんですね。

 

残念ながら川和高校は負けてしましたが、来年は「背番号1」をつけた石田翔太君が北神奈川代表で甲子園に出場する姿を見たいですね。

 

自分が函館に住んでいたときに2002年7月27日広島対横浜の試合が函館であったときの夜に

(試合には負けましたがボイ・ロドリゲスのサイクル安打が出た試合。なまら景気悪い試合でしたが) 

「赤ちょうちん」で飲んでいた石田文樹氏にお会いして、高校時代の話や早稲田大学中退した話を

聞かせていただき、日石時代の都市対抗の話題などお聞きいたしましたが、自分が中心ではなく

周りの力でやってきて今の自分があるんだと言うことを聞かされました。

(某N山メンバーのネタはスルーされました。)

プロ野球に進んだ理由は、早稲田の先輩で当時のスカウトの江尻さんの強い要望でドラフト指名されたそうです。

石田さんから私が教わったことはやはり人の絆を大切さを教えていただきました。

ここで改めて石田文樹さんのお悔やみを申し上げます。


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NETの爆弾

niceを頂いた方へ
ありがとうございます
by NETの爆弾 (2008-07-25 08:38) 

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