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ゲイの守護大名 [ゲイ嚢人]

今回は室町時代から戦国時代まで西日本地域で栄えていた

守護大名を特集する。

彼は自分の性癖で自らを滅ぼし、その家も戦国大名に成り上がった

国人領主に滅ぼされるという愚行を歴史に残した人物でもある。

その大名の名は大内義隆である。

大内義隆.jpg

・1507年11月15日~1551年8月31日、享年45歳、周防・長門・石見・豊前・筑前守護職。

・幼少の頃より陶興房の嫡男、陶隆房(後の晴賢)を寵愛する。

・尼子経久から寝返った毛利元就が吉田郡山城で籠城戦&安芸国人衆を総動員したゲリラ戦を展開したとき、後詰にお気に入りの陶隆房を総大将として援軍に送る。

・尼子が安芸の一国人衆の毛利に負けたことと、1541年に尼後家当主の尼子経久がなくなったことを機に陶隆房にそそのかされて出雲に遠征して月山富田城を攻囲するも、配下の国人衆三刀屋久扶、本城常光らの寝返りにあって尼子晴久に大敗した

・中々実子が生まれなかったので、土佐中村の一条房冬の子、一条恒持(大内 晴持)を3歳の時に養子にして寵愛する(寵愛の理由は文武に秀で和歌や管弦などの雅な教養にも明るく、公家の名門一条家の血筋もあってなのか義隆に可愛がられた。)が尼子攻めの際に船で周防に退却することになった。しかし、船が途中で転覆したため、晴持は溺死した。

晴持の死後、義隆は幕府に工作して将軍家の「義」の字を賜り、大内義房として弔った。

・豊後大友氏の第20代当主・大友義鑑の次男の義長(後の晴英、大友義鎮の弟)を養子に迎えるが、後に義隆に実子の大内義尊が誕生したため、猶子関係を解消され、帰国した。

毛利元就の長男の隆元を人質に来たときに寵愛して、重臣の長門国守護代内藤興盛の息女を養女として隆元の正室にさせるというゲイによく見られる偽装結婚をさせた。ちなみに隆元の元服時の烏帽子親も勤めている。

・また、隆元と入れ替わりできた、三男小早川隆景も寵愛しており、彼を鉄壁のゲイに仕立て上げた。

・尼子大敗戦により養嗣子の大内晴持を失ったため、政治的関心を失い、もともと関心の強かった文人的傾向が強まり、文治派の相良武任らを重用した。

・山口に来たフランシスコ・ザビエルとも面会したが、男色を罪とするキリスト教の教えに大内義隆が激怒したためにザビエルとの関係は途絶えることとなった。

・陶隆房は文人的傾向を自分が捨てられて他の相手との肉体関係があったのではないかと思い嫉妬し、内藤興盛と手を組み謀反にいたる。

・陶・内藤らが謀反を起こすという情報が流れ、義隆は一時、大内軍を率いて館に立て籠もったという。このときの反乱は風評に終わる。側近の冷泉隆豊は陶討伐を諫言したが、義隆は陶との寵愛の日々を思いこれを受け入れなかった。

・陶隆房(周防国守護代)は天文20年(1551年)8月末、謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛(長門国守護代)も黙認し、義隆を救援することはなかった。

・義隆は長門深川の大寧寺に逃亡し、そこに立て籠もった。このとき、義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりは目覚しかったが、多勢に無勢であり、義隆は隆豊の介錯で自害した。享年45。辞世は「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観」と伝わる。



自分のゲイで見事に滅びるとはある意味、阿斗化しとりますね。www

大内家の騒動にかぎつけて毛利元就が見事に勢力を伸ばしたのも自分の息子二人を人質に出していたおかげかも知れませんね。www


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